平安中期、白河上皇や紫式部が仕えた藤原道長・頼通、藤原師通などにより、都の遠郊外にある深山・霊山、鞍馬寺に参詣が相次ぎます。それに伴い、平安王朝に仕える多くの女流文学者も多く来山していました。清少納言は、随筆『枕草子』で鞍馬の九十九折りの道を「近うて遠きもの、くらまのつづらをりといふ道」と書き、菅原孝標の女は『更級日記』で鞍馬寺での参籠の様子を「春ごろ、鞍馬にこもりたり。山際霞みわたりのどやかなるに」と述べています。王朝歌人として著名な赤染衛門も「二月にくらまにまうでしに、いはまの水のしろくわきかへりたるが雪のやうに見えしに」と誌しています。それに加え、紫式部は、『源氏物語』若紫巻で光源氏の最愛の女性、紫上の少女時代である若紫との出会いの寺である「北山のなにがし寺」を鞍馬寺としてリアルに描写しています。
鞍馬寺伽藍図(部分)
江戸時代
『源氏物語』若紫巻で光源氏が「北山のなにがし寺=鞍馬寺」で、少女若紫に出会う。又、怨霊による「おこりの病」を鞍馬の高僧の験力によって癒され、都に帰る際、別れの宴を催した「涙の滝」が鞍馬寺伽藍図に書きこまれている。