鞍馬山開創
『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年  (796) 
造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。
文芸の山
平安中期、白河上皇や紫式部が仕えた藤原道長・頼通、藤原師通などにより、都の遠郊外にある深山・霊山、鞍馬寺に参詣が相次ぎます。それに伴い、平安王朝に仕える多くの女流文学者も多く来山していました。清少納言は、随筆『枕草子』で鞍馬の九十九折りの道を「近うて遠きもの、くらまのつづらをりといふ道」と書き、菅原孝標の女は『更級日記』で鞍馬寺での参籠の様子を「春ごろ、鞍馬にこもりたり。山際霞みわたりのどやかなるに」と述べています。王朝歌人として著名な赤染衛門も「二月にくらまにまうでしに、いはまの水のしろくわきかへりたるが雪のやうに見えしに」と誌しています。それに加え、紫式部は、『源氏物語』若紫巻で光源氏の最愛の女性、紫上の少女時代である若紫との出会いの寺である「北山のなにがし寺」を鞍馬寺としてリアルに描写しています。
鞍馬寺伽藍図(部分)
鞍馬寺伽藍図(部分)
江戸時代
『源氏物語』若紫巻で光源氏が「北山のなにがし寺=鞍馬寺」で、少女若紫に出会う。又、怨霊による「おこりの病」を鞍馬の高僧の験力によって癒され、都に帰る際、別れの宴を催した「涙の滝」が鞍馬寺伽藍図に書きこまれている。
武の山
平安末期、末法の時代、鞍馬寺の僧兵は比叡山の僧兵に数は劣るものの、より勇猛だと讃えられていました。源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に鞍馬寺に入山し、16歳の頃、鞍馬寺を出て奥州平泉に下ったと言われています。牛若丸は、由岐神社の上手にあった東光坊で昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説があります。南北内乱期には、僧兵の出兵を促す文書や後醍醐天皇の綸旨などが多数残っています。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。
奉納絵馬 年代不詳
奉納絵馬 年代不詳
鞍馬寺に奉納された絵馬の絵を元に修復・合成したイラスト。飛び上がった清冽な牛若丸と魁偉な烏天狗と鼻高天狗が対比的に活写された優品。
福と花の山
江戸時代、鞍馬山の参道沿いに十院九坊と呼ばれた塔頭が並び、本尊毘沙門天が武神から福神へと信仰の形を変え、鞍馬願人が江戸や大坂で護符を配り、多くの参拝客が全国から参集しました。又、鞍馬寺は、桜の名所として広く知れ渡り、京都所司代や町奉行所が、鞍馬山の桜をみだりに折ってはならないという禁制、『花の制札』を多数、発給しています。
京都所司代禁制(花の制札)
京都所司代禁制(花の制札)
江戸時代
福と花の山
千二百余年前、鞍馬寺を開創した鑑禎上人は律宗に属し、藤原伊勢人は、鎮護国家の毘沙門天と慈悲の観音を一体として併せて祀りました。中興の祖、峯延上人は真言宗の十禅師とも言われています。後に天台宗の影響が強まり、天台法華・天台密教・天台浄土が取り入れられました。
鞍馬山には、神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の要素も含まれています。宗派に捉われない懐の深さは鞍馬寺の宗教伝統となっています。 昭和22年、初代管長信樂香雲は、このような多様な信仰の歴史を統一して鞍馬弘教と名付け、昭和24年、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となりました。
鞍馬寺貫主 信楽香仁、作詩『光に向かって』天を覆う雲は厚くとも、太陽は常に大空に在る。風が来て雲を払えば、黄金の光が燦然と輝く・・・
鞍馬山からの山影と光
鞍馬山からの山影と光